2005.06.27〈月〉 ノラ・ムラエリア / 公園レポート / 日々記
古民家のいわれ
今回は、公園に先日移築が完了した「旧中道家」の歴史を詳しく振り返ります。文章を寄稿してくださったのは古民家移築に多大なる協力をいただいた柴田さん。
この文章を読むと、古民家の歴史がわかります。
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丹波並木道中央公園の民家移築をめぐる思い出
京都市 柴田 周二(旧大山出身・京都光華女子大学教授)
現在、篠山市西古佐に、2007年春の開園を目指して、丹波並木道中央公園が建設されている。本年3月、その一角に、母の実家の建物のうちから母屋が移築され、すでに開園までの行事などの休憩所として利用されている。かつて、私は、本誌(『郷友』篠山出身者の方々が会員となって発行される雑誌)に、この家のことを崩れゆく民家の悲哀として書いたことがある。それを思うと夢のような話である。
母の実家(中道(なかみち)家)は、旧大山村の大山新にあり、江戸末期に建築された古い茅葺の民家である。江戸時代から村の庄屋を努め、曽祖父の中道伊兵衛は大山村の初代村長として大山小学校の充実・鐘ヶ坂トンネルの建設・丹波大山駅の誘致・共同貯蓄銀行や篠山第百三十七国立銀行の設立などに努力し、最盛時には各府県15人の貴族院多額納税者議員互選名簿に名を連ねた。その後、この家では、分家となった養子が村長をしたり、加古川水運の開発者として知られる滝野の阿(あ)江(え)家から養子に入って家督を継いだ祖父が、第二次大戦後まで大山郵便局を開局していたので、お年寄りの方にはご記憶の方が多いかもしれない。
民俗学者の宮本常一によれば、明治中期から、地方の地主層や商人たちは自分の子弟を東京にやって教育することをはじめ、長男が家を継ぐ東日本では次三男を東京にやったのに対して、西日本では長男を東京などに進学させる傾向が強かったといわれる。その例にたがわず、祖父は、長男と次男を、ともに神戸の中学校から、一高、東大へ進学させ、女子は結婚のためにこの地を離れた。そして、第二次大戦後、この家に残ったのは、郵便局長を退職した祖父と祖母、そして、とも身体に障害のある三男の叔父と三女の叔母であった。叔父は身体障害のゆえに、小学校へ行くこともなく、終生この家から出ることなく人生を終わった。一方、三女の叔母は、不自由な足で篠山までの8キロの道のりを毎日徒歩で女学校まで通ったが、ついに嫁ぐことはなかった。
私は、第二次大戦後、朝鮮から引き揚げ篠山農業高校の教員をしていた父と母の次男として、1948年にこの家で生まれ、隣家に住んだ。子どものときから母の実家は私の生活圏の一部であり、七夕・お盆・十五夜などの年中行事の飾りつけ、夏の簾戸の入れ替え、障子の張替え、庭の掃除などは私の仕事であった。お盆のときは村中のお寺の住職が次々とやって来られ、それを祖父が迎えた。高校時代にはこの家の茶室が私の勉強部屋になり、夏の蝉時雨と冬の雪の中で受験勉強をした。身障者といえば、私の兄もまた身障者であった。身障者をめぐるこの家の人間模様は私の心に多くの鮮やかな光景と深い陰影を残している。やがて、私の父や祖母が亡くなり、私は京都の大学へ進学することになり、私の家族はこの地を離れた。そして、最後に残ったのは、年老いた祖父と障害者の叔父と叔母であった。
私は、学生時代から、夏休みになると、母の実家に行き、一ヶ月近くを過ごし、機会あるごとにこの家に帰った。1970年代初頭に、祖父と叔父が相次いで死亡した。祖父は私が正月に帰郷し京都に戻ったあと2日ほどして突然亡くなった。薄幸の叔父が亡くなり、奥座敷に棺を据え、見送ろうとしていたちょうどそのとき、庭で鶯が「ホー、ホケキョウ」と美しい声で鳴いた。初めての経験で驚いたが、叔父が長い苦しみから解放され、仏のもとへ行ったような気がした。それから、叔母一人の生活が始まった。
東京にいた長男の伯父(次男は早世した)は大企業の役員として金銭的な面では家屋の維持に努めたが、その維持は大変であり、この伯父が亡くなったあとは、叔母は家に残された書画骨董を次々に売って家を維持した。私は、結婚して子どもができてからも、夏休みなどに子どもや妻を連れて一人暮らしの叔母のもとを訪れ、数日を過ごした。母の実家は、私の子どもにとっても懐かしい家であった。しかし、広い茅葺き家での叔母の一人暮らしは厳しく、冬の寒さや崩れゆく土壁や木枯らしの音は心を侘しくさせたものと思われる。
叔母が短歌や俳句を始めるようになったのは、1980年代に丹南町役場より派遣されたホーム・ヘルパーの酒井八重子さんの勧めによるものであった。当時、叔母は六十歳を過ぎ、それまで歌や俳句の世界には全く無縁の人間であった。しかし、酒井さんのご指導を得てから後は、歌や俳句は確実に叔母の生活の柱となり、孤独な心を慰める唯一のよすがとなった。
独り居の虚しき日々の明け暮れに早ひととせの春は過ぎゆく
仏前に花を手向けてひとときの母の面影偲ぶ盂蘭盆
味噌汁のからさ身にしむ冬の朝広き厨の寒さひとしほ
夢に見し母の思ひに涙してめざめる朝の光まぶしく
廃屋の影に咲きたる紫陽花を手折りて挿しぬ白磁の壷に
独りなる広き厨のストーブに赤く照らされ侘しき夕餉
むなしさにふと口ずさむ過ぎし日の思ひ出多き青春の歌
父在りし日そのままの冬座敷
寒菊に母逝きし日をふと思ふ
箸紙に一人名を書きお正月
遠き日の思ひ出よぎる里神楽
父母逝きて幾星霜や天の川
やがて、叔母は1988年の夏から、篠山市福住にある特別養護老人ホーム「山ゆりの里」に入ることになった。家の整理が始まった。まず、庭にあった六基の石灯籠は、かつて大山郵便局に勤められた方や、父の神戸の実家にも関係が深くお世話になった村の方に差し上げたり、私の京都の家や宇治の従兄の家などに持ち帰った。そのときにお世話になった植木屋さんは、偶然にも私の父の農業高校での教え子であった。また、仏壇の中の古くからの位牌は東京の伯父の家を継いだ従兄が持ち帰り、奥座敷を飾った川合玉堂の衝立は村の菩提寺に寄贈した。
叔母は、山百合の里で心安らかな日々を過していた。しかし、たえず大山の実家に帰りたがっていた。晩秋のある日、叔母を連れ、京都から土鍋と材料をもって、大山の実家に戻り、久しぶりで雨戸を開け、奥座敷で鳥の水炊きをした。叔母はことのほか喜びよく話した。しかし、1990年初頭より体調を崩し、その後十ヵ月にわたる闘病の末、1991年の秋に老衰のため死亡した。最期は、山百合の里に私が泊まった病室の隣のベッドで静かに息を引き取った。葬儀は、叔母がその維持を生きがいとし常に帰ることを希望した実家で行い、村の多くの方々に見送っていただいた。残された叔母の多くの短歌や俳句は、私がワープロでうってまとめて小冊子にして、老人ホームをはじめお世話になった方々にお送りした。この小冊子と叔母については写真入で神戸新聞の地方欄で紹介されたことがある。その記事を読んだ何人かの人から小冊子を送ってほしいという依頼があった。
叔母が亡くなった後、私は、中道家の墓参をかねて、家に風を通したり、屋根に上ってかわらの調整をしたり、周辺の草刈をするために、年に二、三度、この家に帰った。しかし、とても私一人の手に負えるようなものではなく、家屋のあちこちが傷み、裏の二階建ての家や土蔵の一つが崩れた。この間、何度か泥棒が入り、蔵の中のものや、最後には、庭に置いてあった銅製の大きな手水鉢や座敷の電気の傘まで持ち帰る有様であった。しかし、売り物になりにくいのか、足がつくのを恐れたのか、家紋の入った漆器やお膳は不思議と持ち帰らなかった。私は、叔母の存命中に、私が夏休みでたまたま家にいたとき、やってきた古道具屋の顔を思い浮かべた。前にも何度か買いに来たことがあるといい、家にあるものをよく知っていた。そんな事が度重なり、危険を感じ始めたので、私は、座敷の四枚の襖絵を切り取って京都の家に持ち帰ることにした。
そのうち、家屋の維持は限界となり、家屋の保存を条件に土地も含めて寄贈する話を始めた。まず、大山振興会を通じ丹南町に話が行った。当時の丹南町長の杉本幸男氏は、保存に関心を示してくださり、いろいろ努力していただいた。しかし、ちょうど景気悪化で財政難の折でもあり、ことは一向に進まず、家屋の崩壊は進行するばかりであった。考えあぐねていたある日、新聞で、京都府の美山町で行われていた茅葺家の保存記事を目にした。それで、早速、兵庫県の教育委員会に電話をして茅葺家の保存について尋ねた。ちょうど電話に出られたのが、文化財担当の村上裕道さんで、一度見に行くということであった。丹南町の教育委員会の文化財の西田辰博さんと柏原土木事務所の方が同行され見に来られた。そのときの話によると、この建物は間取りなどから江戸末期のもので、特に古いというものではないが、規模の大きさの点で貴重であり解体保存の可能性もあるということであった。村上さんが帰られたあと、西田さんが、「とても幸運な話です」と言われたのを記憶している。しかし、財政難は兵庫県も同じで、具体的な話はそれ以上進まなかった。
そんなある日、兵庫県の公園緑地課の方から私の家に電話があり、民家利用の件で勤務先に話しに来られた。そのときの内容は特に期待されるものではなかった。しかし、その後、一緒に来られた北垣隆司さんが精力的に話を進めていただいて、計画中の丹波並木道中央公園で再利用のための家屋解体の話が一気に進んだ。2001年に行われた家屋の解体はまことに丁寧なもので、母屋、茶室、離れの風呂、庭石、建具、かわら一枚までもって帰っていただくというものであった。また、解体に当たっては、これを担当される小野市の内藤建築設計事務所の藤原義弘さんが私のところやこの家の四女で吹田に住む叔母のところに家屋について聞き取りに来られた。解体された資材などは、県立有馬富士公園の一角の倉庫に保管されるということであった。また、北垣さんからご丁寧なご報告や解体時の写真を何枚もお送りいただき、とてもありがたく思った。しかし、具体的にどう利用されるかは分からず、心の中ではこのままになるのかもしれないとあきらめていた。
ところが、昨年の12月に、たまたま検索したインターネットで、某防腐剤メーカーのホームページに丹波並木道中央公園にある旧中道家が重要文化財という表示があった。ちょうど吹田の叔母の西脇の家(来(き)住(し)家)が国の登録文化財になって公開されるようになった後で、ひょっとしてと思った。しかし、いろんな話から重要文化財というのはおかしいと思って、防腐剤メーカーなどを通じて尋ねていく過程で、今年の1月になって現在並木道中央公園に移築中であることが分かった。柏原土木事務所の山口一哉さんが担当者であった。ご連絡すると移築に関する新聞記事や工事中の写真を送っていただいたりした。そのときに奥座敷の襖絵を持ち帰っている話をして再利用の可能性があればと思ってお送りした。まもなく、京都の表具屋によって再生された襖絵の写真が送られてきた。その後、山口さんからは何枚にもわたる完成時の写真集、前の聞き取りが文書化されたもの、更にこの家を利用してのイベントのご案内をいただいたりした。感激の極みであった。
思い起こせば、この家の移築は、村上さん、西田さん、北垣さん、山口さんという県や町の多くの方のご厚意によって成り立っている。不自由な体でこの家の維持を生きがいとした叔母の思いが多くの方のご協力によって実現したような気がする。多くの方々への感謝の念でいっぱいである。
6月下旬、丹波並木道中央公園で黒豆の定植イベントがあり、母の実家が休憩所として開放されるという知らせを山口さんからいただき、再生された母の実家を訪れた。崩壊前の建物と比べて立派に移築された姿を見て、感無量であった。京都への帰途、中道家の墓地に立ち寄り、曽祖父、祖父母、伯父、叔父、叔母たちにこのことを報告しておいた。 (了)



コメント
・[シューベルティアーデたんば2006(やすらぎの森に響く・・・・・こころ豊かに生活交響曲,丹波の森国際音楽祭)]の一環として次のミニコンサートが、この民家で行われるようですね。楽しみにしています。
「丹南街角コンサート「古民家で聴いてみんか?来てみんか?(ハープとヴァイオリン)」
・日 時 平成18年10月21日(土) 14:00〜
・場 所 丹波並木道中央公園(篠山市西古佐・大山下地区)
・料 金 555円(会員500円)
・出 演 ヤンネ・舘野(ヴァイオリン)、春木浩子(ハープ) ほか」
・ちなみに、篠山の鳳鳴酒造にあるイベントスペース「ほろ酔いホール」にある6本脚グランドピアノ(ヤマハグランドピアノ「ルイ16世型」No.3)は、私の叔父(有馬大五郎)が、兵役で篠山の連隊に配属されたとき、音楽の勉強をするために篠山小学校のピアノを使わせてもらった縁で、数十年の前の買い替え時に依頼を受けて選んだものです。
・今回のミニコンサートを機会に、民家と音楽のつながりが拡がることを期待しています。
柴田さん、お久しぶりです。
開園前から公園づくりの一環で地元内外の方に参加いただき、実験的プログラムや新たな施設づくり(灰屋など)を行っていますが、その拠点となっているのが、この旧中道邸の古民家です。
夏は冷房なしでも心地よく過ごしやすいことを実感しています。建築基準法の関係で元の姿になっていないのは残念ですが、昔の家のつくりは素晴らしいですね。
丹南街角コンサートは、昨年まで何年か続けて旧丹南町の西尾邸酒造でされていたのを、開園前のプレイベントとして公園で実施していただくことになりました。
公園はまだまだ工事中ですし、古民家にシカなどの動物避けの柵をしている中での開催なので、実行委員会の皆さんには実施にあたってご苦労かけていると思います。
是非コンサート、鑑賞しにお越しください。
※鳳鳴酒造のグランドピアノ、機会あれば見に行きます。
(メールアドレスの件、一応削除しておきました)
子どもの頃、夏の最高気温はいまほど高くなかった思いますが、この家の中に入っただけでひんやりとして、座敷に寝そべっていると冷たい風がいつも吹き抜けていました。そのかわり、冬の寒さは格別で、耳がちぎれるほどでした(笑)。
西尾酒造はすぐ近くのお家でいろいろおつきあいがありました。開演前のプレイベントとしてのミニコンサートは素敵ですね。京都府の南丹市日吉町にあるザイラー邸は、昔の寺を移築して「かやぶき音楽堂」として使われているものですが、中道邸もそこまでは行かずとも室内楽などを聴く場として利用されたらいいですね。
六本足のピアノや叔父(岩城宏之『チンドン屋の大将になりたかった男』(NHK出版)に事実小説の主人公として描かれています)のことについて私が書いたエッセイがありますのでまたお送りします。いまちょっとファイルが見当たらなくて。
思えば、このページは中道邸のホームページみたいなものですね。せっかくの場ですから、また時々投稿させていただきます。
10月21日はできるだけ参加したいと思っています。楽しみにしております。
六本足のピアノに関するエッセイをお送りする前にひとつ。
古民家の活用については、レストランとか集会所とかいろんな事例があるようですが・・・・・。
・ひとつおもしろいサイトを見つけました。
年中行事を開催するというものです(詳しくは「参考 (市民参加)狛江古民家復元ワークショップ」のサイトで)。
並木道公園でもいろいろな企画をされていますが、今では忘れられた年中行事を核にするのは、季節ごとに風情のあるおもしろい試みのような気がしました。
正月、小正月、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、お盆、十五夜などは、子どもの時に飾りつけなどして、今も鮮明に記憶に残っています。この頃の子どもは、必ずしも家の中ではしていないのではないでしょうか。
・民家活用の例として、上の本文でも触れた叔母の西脇の家である旧来住(きし)家で行われている試みをご紹介します(詳しくは「旧来住家住宅」のサイトで) 前にお話したかもしれませんが、ここは西脇市に寄付されて国の登録文化財になってから、地域の人たちによって見学の案内が行われています。この家は、建築などに贅が尽くされていて、見るところが多いのでそういう企画がなりたつのだとも思いますが、それとは別に、この家の洋館部分を日によって違うNPOなどに任せて、軽食や喫茶をしています。今後の民家の運営のひとつの方法かもしれません。
それと、茶室を利用して、高校生や地域の人のための茶会などを開催しています。旧中道邸にも、祖父を滝野の阿江(あえ)家から養子に迎えるためにつくったよい庭と茶室があったのですが残念ながら移築されていません。その資材や石組みは県立有馬冨士公園の倉庫に保管されていたようですが、もう他のところに利用されたんでしょうかね。もしまだ使われていなくて県に予算があれば(笑)、移築するといろんな利用法ができます。西脇では、市の迎賓館などにも利用しているようです。
・民家活用の本を見つけました。
『古民家活用事例 報告集』(まつやま書房)です(詳しくは「市民活動の本」のサイトで)。
直接には手にとっていませんが、フォーラムの報告集のようです。
篠山の鳳鳴酒造のほろ酔い城下蔵にある六本足のピアノについて、前に書いたエッセイ「ピアノをめぐる奇縁」(『郷友』412号、2004年9月)を送ります。『郷友』は篠山関係者の同人雑誌です。篠山→音楽→古民家とつながればと思います。
『郷友』411号に、篠山音楽協会会長の西尾昭氏が、鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵で活躍する「70歳の古いピアノ」のことを書いておられる。この記事を見て、私はなんともいえぬ郷愁と奇縁を覚えた。
戦前、篠山歩兵70連隊時代に、篠山小学校のピアノを借りて勉強し、ここに紹介されたピアノ選びに奔走した有馬大五郎は私の父のすぐ下の弟、すなわち叔父である(父は養子であるので名字が異なる)。そして、このピアノにまつわるエピソードをお話しされた内山茂子氏のお姉様の登石静世氏は、私の母の京都府立第一高等女学校時代からの親友で、私は最初の就職のさい大変にお世話になった。さらにいえば・内山茂子氏は、私の父が第二次大戦終了後、朝鮮から引き揚げて、母の実家のある大山に定住し、篠山農業高校の化学の教員になったときの同僚で、私の姉三人も内山先生に音楽を教えていただいた。そして、もう一ついえば、叔父の大五郎は、当時、篠山の老舗旅館近又楼から連隊に通っていたが、旧大山村の初代村長だった母方の曾祖父の中道伊兵衛もこの旅館と関係が深かったと聞いている。終戦後には、大五郎叔父は、父が篠山農高に勤務していた関係から、同校の校歌を作曲している。私の父が篠山農高に勤めていた時、今の篠山市長の瀬戸氏もそこに通われていたようで、私の姉の話では、父は化学の試験を採点する時、「瀬戸はよくできるから見んでもよい」と言っていたとか。ちなみに、ここに名前のあがった人々の関係は、別に必然の糸につながれていたわけではなく、このエッセイを読んだ後、私の頭の中でできたつながりである。
有馬大五郎は、西尾氏のエッセイにも書かれているように、その後、国立(くにたち)音楽大学の学長を四十年近く務めた。というより、叔父は、N響を日本のN響から世界のN響に育てることに心血を注ぎ、そのために世界中から多くの音楽家を招いた。ウイーン音楽院で同窓であったカラヤンをはじめ、かつての大指揮者ワインガルトナー、ローゼンストック、カール・べーム、サバリシュ、親友のマタチッチ、オットマール・スウィートナーら、昔の音楽ファンには懐かしい名前が続く。ある書物によれば、結局は幻の企画に終わってしまったが、フルトヴェングラーを招く準備もあり、イタリアオペラやウイーン少年合唱団を日本に招いたのも叔父の仕事であった。その関係もあって、昭和55年に叔父が亡くなった時、ちょうど日本を訪れていたウイーン・フィルとN響の合同による音楽葬が行われ、叔父の名は「有馬賞」という形で今もN響に残っている。この叔父の前半生については、愛弟子の一人であった指揮者の岩城宏之氏が、『チンドン屋の大将になりたかった男』(NHK出版)というタイトルで事実小説を書かれている。
さて、今回の『郷友』の記事を読んで、私は、さっそく、同誌に紹介されていた内山茂子氏のお宅に、これらのことを伝える手紙を書いた。私は、昭和23年、父が51歳の時に大山で生まれた子どもなので、内山氏にはたぶんご存知ない存在だったと思うが、内山氏からは、すぐに、父、母、叔父、姉、そしてお姉様のことを懐かしく書かれたお手紙を頂戴した。私は、すぐにそれをコピーして私の姉たちに送った。
いつかの『郷友』にも書いたが、私は、50歳の時から、受験勉強のためにピアノをやめた娘の代わりに、ピアノを習い始めた。当時の先生は東京音楽学校でクロイツァーに学んだ20歳の娘さん四人分、つまり80歳前の女性であった。その後、私の先生は、20歳の娘さん二人分、今は一・五人分の娘さんへと次第に若くなり、今年で始めて五年になる。今秋には、ベートーベンの「月光」第一楽章を弾くことが、小さい子どもさんに混じっての発表会の課題になりそうである。数年前に、私の長姉の娘が、フランスでピアニストのジャック・ルヴィエに師事して帰国し、この問ポルトー音楽祭で優勝したり、安川加寿子賞をもらったりした。その姪の伴侶(宮下朋樹)もまたピア<70歳のピアノ演奏を職業とし、今は神戸女学院大学や大阪音楽大学、同志社女子大などでピアノを教えている。私はともかくとして、いつかこの三人で篠山の鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵に行って、叔父が選んだピアノに触れたいものと、家内ともども楽しみにしている。